ヒマラヤ山岳少数民族とその暮らし

 ネパールには100を超える少数民族が暮らしていますが、その中でも有名なのがクーンブ地方に住む山岳少数民族のシェルパ族です。彼らはチベット系少数民族で標高2500m~4000m付近で暮らしています。そのルーツはチベットにあり、信仰する宗教もチベット仏教です。チベット系少数民族は地方によって生活や文化が多生異なり、観光地化が進む地方では民族色が薄れてきているように思えます。ここで紹介するのはクーンブ地方マナスル地方ランタン地方のチベット系山岳少数民族です。

Ⅰ クーンブ地方に住むシェルパ族

 エベレスト街道の大半はシェルパ族の生活道路です。
それは村から村へとつながれ、標高四三〇〇メートル付近まで続きます。街道を歩いていると村人の生活が見え、家の中から聞こえてくる声や、庭に干された穀物は人々の生活を想像させます。あちこちで見かける仏塔や祈祷旗、マニ石、マニ車はチベット仏教への信仰の深さを思わせました。

エベレスト街道の風景

エベレスト街道パンボチェの集落 標高3930m

 エベレスト街道にあるパンボチェの風景です。標高の高いクーンブ地方では主にジャガイモが作られています。その段々畑が村の周囲に広がり、仏塔も所々に見ることができます。ヒマラヤとジャガイモ畑、そして人々の暮らし、これがエベレスト街道の風景です。

暮らしの中のチベット仏教

マニ石

マニ石とはお経が刻まれた石を意味する。大きさは様々で小さな石版から大きな岩まで大小様々で、街道のあちこちに並べられている。

仏塔(チョルテン)と祈祷旗(タルチョ)

峠には必ずと言っていいほど仏塔(チョルテン)がある。そして四方には祈祷旗(タルチョ)が風になびいた。

マニ車

マニ車の中にはお経が収められている。このマニ車を回すとお経を読んだことになるのだ。人々は「オンマニペメフム」と唱えながら回す。

マニ石とゾッキョ

エベレスト街道には車道がない。そのほとんどが人力か動物によって運ばれる。ゾッキョはヤクと牛のかけ合わせで、運搬の主力。

仏塔の顔

仏塔には四方に鋭い目をした顔が描かれている。この目は真理を見つめているという。チベット仏教は哲学的雰囲気を持っている。

吊り橋と風になびくカタ

カタとは旅の安全を祈り、旅人に贈る布。吊り橋にくくりつけられたカタは風になびき、風は願いを天に届ける。

シェルパ族の里ナムチェバザール

大きなロッジが次々と建ち観光地化が進むナムチェバザール

 ナムチェはエベレスト街道最大の街です。最近では大きなロッジが次々と建設され、街中には銀行や診療所もあります。ここでは古くからチベットとの交易が行われ、毎週土曜日に市(バザール)が立ってきました。そこからこの街をナムチェバザールと呼ぶようになったのです。バザールは周辺からも買い物客が集まり、その様子を見ようとするトレッカーも加わって大変な賑わいを見せます。
 天空の街、ナムチェバザールは標高3400メートルにあります。すり鉢状に密集した街並みと、ヒマラヤの景観は撮影に飽きることがありません。初めてここを訪れてから二〇年が経過し、その間街の成長を見続けてきました。ここ数年、街の様子がかつてない早さで変わりつつあるように思います。街の大通りは更に整備が進み、観光地として変貌を遂げました。かつてのジャガイモ畑にはロッジが建ち並び、街の上部へと宅地化が止まリません。シェルパ族の里ナムチェバザールは、世界から押し寄せるトレッカーとともに今もなおその街並みを拡大し続けています。

土曜の市ナムチェバザール

2002年12月のナムチェバザール

この写真は20年前のもの。時は移ったが、今もこの賑わいは変わらない。

野菜、果物、香辛料もある

ここで売られている緑色の野菜は唐辛子。シェルパ族は辛いものが大好きだ。

バザールでは何でも売っている

ここでは食料品だけでなく、衣類、燃料、日用品など何でも売っている。

街道での出会い

日なたで暖まる兄弟

 街道沿いではいろいろな出会いがあります。私のトレッキングはビスタリ(ゆっくり)です。街道で行き会う人々に注意を取られ、予定どおり前に進みません。特に子供たちに出会うと、どうしても写真を撮りたくなってしまいます。その表情や仕草に引きつけられてしまうからです。だから宿に着くのは午後一時を過ぎ、いつも遅い昼食となりました。

ロッジの女将

シェルパ族の女性は着物の上に横縞の入った前掛けを付けている。地方や年齢によって色や模様が違う。

軒先での会話

軒先で干されているのはスンパティーという香料。のんびりとした会話が日常。

経ををとなえる尼僧

ターメの近くには尼寺があり、その近くで出会った尼僧。買い物に行く途中でもお祈りは欠かせない。

Ⅱ マナスル山麓に暮らす人々

ローの畑に降り立ったヘリコプター

 2014年12月28日、私はマナスルの山麓にあるローに降り立ちました。カトマンドゥからヘリを利用して、一気に山と谷を飛び越えてきたのです。それは日程を一週間短縮するためでした。費用はかかりましが、日本登山隊の聖地を一度は訪れてみたいと思っていたのです。ローに近づくと、周りの山は険しく、谷は更に深さを増していきました。どこに着陸する場所があるのだろうと心配していると、畑の真ん中で手を振る人たちが見えてきました。先に徒歩で到着していたコックやポーターたちでした。平らな畑の真ん中に雪を踏み固め、臨時のヘリポートを作っていたのです。ローの標高は3200メートル、到着後、体を高度順化させるためマナスルの展望台まで歩くことにしました。途中にチベット仏教の寺院があり、マナスルはその上に堂々とそびえています。寺院の門構えはなかなか立派なもので、これは絵になるなと思いました。早速撮影にかかると、子供たちの賑やかな声がどこからか聞こえてきました。(「天空の記憶」より)

チベット仏教の寺院と子供たち

ローに到着後、高度順応のためマナスルの展望台に向かった。カンニ(仏塔門)をくぐると、マナスルとゴンパ(寺院)が見えてきた。

チベット仏教の寺院には立派な門が建っていた。撮影にかかるとどこからか子供たちの声が聞こえてきた。

中庭をのぞくと子供たちが勉強をしていた。この寺院には寄宿舎があり、彼らは僧になるため親元を離れ勉強と修行に励んでいた。

マナスル山麓の村サマへ

サマ村の全景

 ローに到着した翌日、マナスルの山麓にあるサマに向かいました。丘を越えると大きな集落が見えてきます。ヒマラヤ山中の村としてはかなり大きな村です。ここに到着してわかったのですが、大雪のためここから先へは進めないことが分かりました。結局ここで三日間滞在することになったのです。

途中で出会った人々

サマに向かう途中行き会った親子。女性の前掛けを見るとチベット系民族であることが分かる。

ローで出会った3人兄弟。左の子は顔を洗わないせいか黒くなっている。

サマに向かう途中、山を下りる集団に出会った。サマはもうすぐ雪に閉ざされてしまう。途中で一休みしていた。

サマの村祭り

祭りが始まると積み上げた麦わらに火が付けられた

 ローを出発して二日目、シャラを経てサマ村に到着しました。サマ村は戸数が多く、このあたりでは大きな集落です。村の中にあるロッジに到着し、一休みしていると表の通りから何やら賑やかな音が聞こえて来ました。聞けば、幸運にも今日は祭りの日で、村はずれの広場で行われるといいます。聞こえてきたのは祭りの開始を知らせる音楽隊の演奏です。その後ろからは派手な衣装を着た踊り手が続きます。私は早速出かけてみることにしました。
 そこは畑の中で、すでにかなりの村人が集まっていました。人垣の中央には麦わらが積み上げられ、しばらくすると火が付けられました。その周りでは御神酒が酌み交わされ、音楽と踊りも始まりました。見物人に目を向けると、皆夢中になってその様子を見ています。辺境の地では、祭りが最大の娯楽なのでしょう。

ロッジで一休みしていると表の通りが何やら賑やかだ。今日は村祭り、その開始を知らせる楽隊だった。

楽隊に続いてきたのは派手な衣装を着た踊り手たち。私は早速村の外れにある広場へ行ってみることにした。

祭りを見物する村人たち。一人一人の表情や服装が面白い。皆夢中で祭りを見ていた。

夕焼けのマナスル

 村の祭りが終わった夕方、空一面に夕焼けがひろがった。雲の高さはおそらく1万mを超えているだろう。夜になればヒマラヤの空には無数の星がきらめく。中央の山はマナスル8163m。 (ヒマラヤ地水風空花より)

村中の散策

雪どけでぬかるんだ道を人とヤクがすれ違っていった

 昼食後、散策に出かけようと部屋を出ました。すると日当たりの良い中庭の軒下で機を織る女性がいます。写真を撮っても良いかと尋ねると、はにかむように承諾してくれました。現金収入の少ないこの村では、自給自足が日常なのでしょう。サマでは外部から手に入る物資は未だに限られています。それはここまでの輸送手段が人か馬に限られているからです。しかも、車の入る街からは一週間近い日にちを要します。そして冬になると、この地域は雪に閉ざれ、外部との交通が遮断されてしまいます。
 この閉ざされた辺境の地に入ると、まるで一時代前にタイムスリップしたような錯覚におちいるのです。その原因は国策により外国人の入域を制限してきたことにもあるのでしょう。入域制限は今でも続き、単独でのトレッキングは今だに禁じられているのです。そのため、エベレスト街道と比べると観光地化が極端に遅れてきました。村のメインストリートに出ると雪でぬかるんだ道を放し飼いのヤクが歩き、ヤクを避けるように村人が歩いていました。

中庭に出ると機を織る女性を見つけた。フォトキチフンツァ?(写真を撮ってもいいですか。)と聞くと、はにかむように承諾してくれた。

サマの入り口に建てられたカンニ(仏塔門)。邪気の侵入を防ぐと信じられている。サマの仏塔はどれも立派だ。

帰り際、水路で芋を洗う農婦を見つけた。かごの中のジャガイモは大きい。畑の土がこの村を支えているのだろう。

サマとの別れ

村の外れで見かけた少年

 サマでの滞在は今日で三日目となりました。いよいよ今日はその最終日で、これから下山しなければなりません。実は当初サマでの滞在予定は一泊でしたが、これを変更しなければならない事態となったのです。この年は積雪が多く、サマから先へは進めないと分かりました。ロッジの亭主が話すには、雪が降ってからこの先にある峠を越えてきたものは誰もいないというのです。結局、ヘリで飛んできた道を今度は徒歩で下ることになりました。しかし、こんなことはヒマラヤトレッキングではよくあることで、むしろサマでの滞在は村人の生活を見る良い機会となりました。ものは考えようです。
 別れを惜しみつつ、村はずれまで来ると一人の少年に出会いました。私を待ち構えていたかのように、階段に腰掛けていたのです。カメラを向けると嫌がることもなく、微笑み返してくれました。「また来なさい」、マナスルの神が少年の姿を借りてそう言っているように思えました。

Ⅲ つかの間の夏ランタン

キャンジンゴンパの洗濯風景

 2003年8月、私はわずか8日間という短期日程を組み、いちかばちかヘリをチャーターしてランタン村の上部にあるキャンジンゴンパへ直行することにしました。仕事の関係で長期休暇が取れず、タイトなスケジュールになってしまったのです。そうまでして行く理由は何だったのか。それは夏のヒマラヤに咲く高山植物をどうしても見たかったからです。しかし、これは雨期に入ったヒマラヤの天候を無視した無謀な計画でした。
 そして出発の朝、空港に到着すると休む間もなくヘリの搭乗開始となったのです。せわしく搭乗手続きが行われ、ヘリに近づくとパイロットが早く乗れと手招きをします。確率の低い一発勝負が吉と出たのです。ヘリは見覚えのあるカカニの峠をあっという間に飛び越え、新雪に輝くランタンリルンの麓に着陸しました。そこはキャンジンゴンパと呼ばれる小さな集落で、緑の草地がまぶしく輝いていました。到着後、上空に青空が広がると水場に人が集まり始めました。洗濯日和とみた村人たちが、一斉に洗濯を始めたのです。私はその様子を見て、この晴れ間が如何に貴重なものであったかを知ったのです。

到着すると上空に青空が広がり、水場で洗濯が始まった。

中央に見えるのはゴンパ(寺院)。キャンジンゴンパはキャンジンの寺という意味。

寺のすぐ近くにある仏塔。このまわりに若者たちが集まっていた。

キャンジンゴンパの矢祭

キャンジンゴンパの矢祭

 翌日、私は高度順応もかねて高山植物の撮影に出かけました。キャンジンゴンパの標高はおよそ3800メートル、周囲には牛や馬の放牧地が広がりアネモネリブラリスの花が一面に咲いていました。撮影に一区切りを付け、ロッジに戻ると丘の上にある寺院(ゴンパ)の周辺が何やら賑やかです。村人が集まり、仏塔の前で何かの儀式をおこなっていました。終わりごろ、誰かが「キエキエッソッソー」とかけ声をあげ、ツァンパと呼ばれる麦の粉を空に投げ上げました。それを合図に一斉に村の広場に駆け下りてきたかと思うと、矢祭が始まったのです。若者たちは手に手に矢を数本持ち、順番を待って50mほど先の的を射始めました。
 私は早速その様子を撮影することにしました。天気に恵まれただけでなく、チベット族の祭りに出くわすとは思ってもみませんでした。競技が終わると、今度は着飾った村人たちが広場に集まってきました。面白いのは腰にスプーンを下げた女性です。装飾品として用いているのですが、おそらく銀製なのでしょう。そして、大宴会が始まりました。その夜、若い男女が向かい合い、列になって踊るかけ声が深夜まで聞こえていました。

競技が始まると順番を待ち50mほど先の的を狙う。皆真剣な表情だ。

着飾った村人たちが、村の広場に集まりは始めた。

小さい村のどこにこんなに沢山の人がいたのだろうと思うほど、賑やかな宴会となった。

広場に残された徳利

 翌日広場に行くと雨の中、徳利が並べてありました。御神酒として残されたのでしょう。注ぎ口にバターが塗られているのは清めのためだと思われます。日本で使われている徳利のルーツはここにあるのかもしれない。そんなことを考えました。

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